大戸の祖先達が残した貴重な文化遺産の野仏。次世代の人たちに引き継ぐことが出来れば

野仏の解説

庚申塔

RIMG0426.jpg庚申塔は室町時代中頃から板石塔婆に「庚申塔」「申待」としてみえるが、庚申塔の造立は江戸時代以降で庚申塔信仰は平安時代の貴族の間で「庚申御遊」「守庚申」等の名称で行われていた。
この名称は、中国の道教の中の三尸説(さんしせつ)というものがあって庚申(かのえさる)の版には人の寝静まるのを待って人の体内にいる三尸虫なるものが抜け出して天帝にその人の犯した罪を告げる、天帝はその報告に基づいて罪の軽重を裁定しその報いとして、さまざまな災いを人間に与えるというものである。
そこでこの体内から抜けるのを防ぐため夜を徹していろいろの遊びをして夜を明かしたんである。すなわし「庚申御遊」である。
この教えは遣唐使や僧侶などによって、日本に伝えられ貴族階級で「庚申御遊」となって行われた。鎌倉時代には武家階級に波及し、
江戸時代に入ってからは一般庶民の間で盛んに行われた。そして幾多は民間信仰と習合し造塔供養にまで発展した。このように雑多な民間信仰が習合して造塔されたので初期のころは主導も一定せず、大日如来あり、地蔵あり、弥勒ありの状態であったが、後に青面金剛が圧倒的に多くなった。そしてこれに三猿が伴っている。多摩地方では町田市域にもっとも多く、かつ塔の内容の変化にも富んでいる。