大戸は、東京都町田市相原町の西端にある地区で、戦国時代には大木戸があった場所です

大戸の伝承

東谷の狼煙場跡

RIMG0703.JPG相原の東谷は、町田街道の八王子市境(恋路坂)の手前右側にある法政大学の西門のあるあたりである。大学の建設により昔の面影はないが、ここから東谷の水田が八王子市との境界近くまで入り込んでいた。この谷戸の奥東側が通称「大平山」と呼ばれ、一番北が山頂になる。峰は大学の造成から辛うじて残った。
 山頂は四十平方メートルの平地があり、中央に塚があった。言い伝えによれば、物見・狼煙場跡で、この場所に建長寺という寺があり、大きな鐘楼があって鐘を打ち鳴らし、その数や緩急などで情報を送った場所であったと伝える。
寺はいつごろ廃寺となったかわからないが、天明年間(一七八一〜一七八九)に土地の者で佐藤安八郎(寛政十年(一七八八)没)と言う人が、この山裾の水田より石仏を掘り出して、籠で負うて家に帰る途中、大戸観音堂前に来たとき、籠が破れて石像は地に座して動かず、仕方なく境内に移そうとしたら不思議と動いたと言われ、以来堂内に祀られた。
明治六年(一八七三)一月二十五日、観音堂は火災にあい、総ての堂宇が焼失したが、石仏故に梵鐘と共に焼け残ったのである。
 翌七年、本堂が再建され石仏は観音堂の本尊となって現在に至っている。太平山の寺院の存在を裏付ける事実である。
相原はここまで西に来ると海抜も一段と高くなり、淺川の椚田城や八王子城は目前に見える。この場所の山下は八王子市との境界で、北に下れば館町字殿入りで八王子城の宿将である近藤出羽守助実の居館跡で、この地名が残っている。この境界に接して八王子市の焼却所があり、大きな煙突がたっているので、この場所のよい目標となっている。