大戸は、東京都町田市相原町の西端にある地区で、戦国時代には大木戸があった場所です

大戸の伝承

相原町「大戸」の地名

DSC_6599.JPG明治八年(一八七五)上、中、下の相原村三ヶ村が合併して相原村となるまで大戸は、「横山之庄上相原村」が村名だったが、通称大戸と呼ばれ通称の方が近郷に知られる村名であった。
 地名の「大戸」は地域の古文書にもなく、数多い字名で土地の所在を示した寛文七年(一六六七)縄入水帳にも見当たらず、明治七年(一八七四)縄入れにより主な字名に統一され、番地制yとなって初めて観音堂がある土地一帯が「字大戸」の地名となったのである。しかしこれは、村の一部分の事で地域全体は現在も上、下大戸の呼び名が通例となっている。大戸の呼び名は上相原の屋号とも言える。
「相原太郎さんの家はと訪ねてもわからないが、**の太郎さんと屋号で訪れたらすぐにわかる場合もある」・・・・・! 屋号といえば大戸は古くから百戸前後の戸数であったが、現在でも屋号で呼び合っている土地柄である。
「新編武蔵風土記稿」や「名勝図会」に帰されるように大戸は鶴間から分岐して秩父、高崎方面に向かう鎌倉街道山之道の要地として、又、横山之庄の相州口としてこの地に口留番所が置かれ、傍らにあったと伝える了心庵は番所の詰所であったと考えられる。この大木戸番所を称していつしか大戸と呼ばれるようになった。
了心庵が後に廣園寺末となって祐照庵と改名し境内に観音堂が創立されたのが慶長元年(四百年以上前)当時から大戸観音様と呼ばれ、鐘楼が八王子八景の一つに称されて大戸の晩鐘と、いずれも大戸と古くよりよばれている地名である。