大戸は、東京都町田市相原町の西端にある地区で、戦国時代には大木戸があった場所です

大戸の伝承

土ケ谷の六本松

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相原町の土ケ谷は第二次世界大戦末期(十九四四)本土空襲に備え、隠蔽式防空壕送信所が建設された谷戸であり、この土ケ谷から旧横山村寺田に出て、八王子宿に向かう峠越えの坂を登りつめたあたりを六本松といっている。
この峰に登る坂道は急で、(嗚呼急だな!)と、思わずため息から「鳴急(あきゅう)の坂」と呼ばれるようになった。
この土ケ谷の峰を今も六本松といっているが、寛文七年(一六六七)の検地帳に記されている字名であり、風当たりの強いこの峰に六本の大きな松があったと思われる。
六本松は別名「物見の松」とも言われて狼煙場のあった場所と伝えられている。狼煙場や物見場が土地の支配者にとって大事な場所であったのは、戦国時代までと思われるが、横山庄を支配していた横山党一族が和田の乱(一二一三)に与して滅亡し、その遺領を与えられた大江氏(長井氏)が支配の拠点とした片倉城(八王子市片倉)、椚田城(八王子市浅川)、小松城(城山)の三城が見える六本松は、要の位置にあり、後年の小田原北条時代の八王子城と津久井城は、目の前に見えてその展望は素晴らしい。
北は相武カントリーのゴルフ場を眼下に奥多摩連峰から八王子を一望し、南は相模の海に江ノ島を望む。
西の大山、丹沢山塊に夕日が沈むときの富士山の姿は見事である。
この六本松の頂上に土ケ谷部落の氏神である山王神社がある。創立は室町期の正長元年(一四二八)以来、実に六百年近く氏子により維持されている。
思うに、狼煙場の伝えがあるこの場所は、非常の時は、神社が詰所の役を兼ねていたのではないか思われる。
この場所より東に下る道が、新編武蔵風土記記稿に記されている上相原の南北往来の古道で、土ケ谷から湯の入、滝の谷へ下り、城山の字下馬へと続く相模の国への道である。
城山ではここに「下馬梅」伝説の案内板がたっている。参考までに記すと、その要旨は、豊臣秀吉の小田原征伐の時、城山城が落城しその伝令の騎馬武者が、津久井城へ知らせるためここまで来て津久井城の落城を知り、力を落として下馬してムチがわりの梅の枝を道端に付き刺して休んだ。その梅が根付いて春になると花を咲かせたとのことである。