大戸の神社は、平家の落人たちが守っています。自治会単位では、日本一神社の多い地区となっています。

大戸の石仏

地蔵(恋路の坂)

場所

町田市相原町5050

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地蔵(左より一基目)

年号  元文二年十一月**(1737)(町田市史による)
本体          地蔵座像(左足半下垂)
本体背面  前住廣園見雲津院大雲元廣
      敬白一應金心禅定門
      為西来意禅定尼菩提他
      堺屋道秋  妙讃
台座 A面 萬霊供養
   B面 元文二丁巳年十一月**
   C面 氏名あるが不明
   D面 武蔵国多摩郡上相原
      同國 足立浦和別所村
      領主 関口元衛門 助力念佛同行
寸法 本体     78*65*50
   蓮座     30*70*60
   台座 (1) 27*42*42
      (2) 25*62*62
      (3) 16*95*95
全高        176
船型

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地蔵(左より二基目)

年号  宝暦三年四月吉日(1753)
本体 六角塔五面に如来立像を刻す
   裏一面に宝暦癸酉年七月吉日
   武州上相原村佐藤市左衛門
寸法 本体   66*一角巾20
   台座  (1) 14*20*26
       (2) 19*20*28
全高  99上部一部補修
六角塔

町田市史下巻記載

相原町権現谷には権現さんとよばれている地蔵様がある。昔から足の病気をなおしてくれる地蔵様として信仰され、神奈川県からの参拝者もあった。願をかけて治ったときは一尺余りの大きな草鞋を供えた。また毎月一日と二十八日に女衆が参りにゆき、権現谷部落の無事を祈った

恋路の坂

RIMG1125.JPG八王子千人同心がしら、原半左衛門の祖先は、永禄四年(一五六一)の川中島合戦のとき、敵将、謙信の乗馬を槍の穂先で打ち、あやうい信玄を救ったという原大隈守胤歳であったという。この原半左衛門の娘が、奉公人の下男と恋仲となった。これを知った半左衛門は、不義は許せぬー相分かれよと叱り、家名をけがす不らち者となじりもしたが、恋墓の情炎はつのるばかり、二人の仲は割くべくもなかった。怒りに怒った半左衛門はついに二人を連れ出し、坂のあたりで両人を斬り首をはねてしまった。そのなきがらは坂の東側の山あいに葬った。あわれに思った里人は、ここを「恋路の坂」とよび、葬った場所を「千人塚」と称し、六地蔵を建て、二人の霊をなぐさめたという。六地蔵はのちに大戸観音の境内に移したといわれる。その時、首をはねた刀は、不浄であるとして、権現社に納められたが、いつ知れず失せてそのゆくえがさだかでない。

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地図

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