大戸の神社は、平家の落人たちが守っています。自治会単位では、日本一神社の多い地区となっています。

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大戸の石仏

庚申塔・馬頭観世音・地蔵(法政大学西門)

場所

町田市相原町4393

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馬頭観世音(左より一基目)

年号  明治二十九年十月十八日(1896)
本体 A面  馬頭観世音
   B面  明治二十九年十月十八日
   D面  施主 西山大吉

寸法 本体   39*19*11
   台座   5*25*25
   平角塔

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馬頭観世音(左より二基目)

年号  明治二十九年十月十八日(1896)
本体 A面  馬頭観世音
   B面  明治二十九年十月十八日
   D面  施主 西山大吉

寸法 本体   39*19*11
   台座   5*25*25
   平角塔

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馬頭観世音(左より三基目)

年号  明治廿年三月三日
本体 A面  馬頭観世音
   B面  明治廿年三月三日
   D面  施主 八木 久作

寸法 本体   (39+3)*18*11
   台座   6*28*28
   上丸角塔

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馬頭観世音(左より四基目)

年号  明治三十八年九月吉日
本体 A面 (右) 明治三十八年九月吉日
      (中央)馬頭観世音
      (左) 施主 八木軍二郎
   B面  八木 政太郎建立

寸法 本体   31*19*8
   隅丸角塔

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馬頭観世音(左より五基目)

年号  明治廿五年六月廿一日
本体 A面  (右)  明治廿五年
       (中央) 馬頭観世音
       (左)  六月廿一日
   B面  八木 政太郎建立

寸法 本体   25*17*11
   隅丸角塔

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馬頭観世音(左より六基目)

年号  明治廿五年六月廿一日
本体 A面  (右)  明治廿五年
       (中央) 馬頭観世音
       (左)  六月廿一日
   B面  八木 政太郎建立

寸法 本体   25*17*11
   隅丸角塔

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庚申塔(左より七基目)

年号  文政四年三月吉日(1821)

本体 A面  庚申塔
   B面  文政四年辛巳年五月吉日
   D面  武州多摩郡上相原邑
台座 A面  講中
   B面  右 八王子  ち*みち
   D面  文字あり不明
寸法 本体   (62+5)*28*22
   台座  (1) 18*40*37
   船形  (2) 9*51*51
山型各塔

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交通安全祈願地蔵

年号  なし
建立 法政大学体育会水泳部

若い命が交通事故で奪われてしまったため建立したとのこと

東谷の狼煙場跡

相原の東谷は、町田街道の八王子市境(恋路坂)の手前右側にある法政大学の西門のあるあたりである。大学の建設により昔の面影はないが、ここから東谷の水田が八王子市との境界近くまで入り込んでいた。この谷戸の奥東側が通称「大平山」と呼ばれ、一番北が山頂になる。峰は大学の造成から辛うじて残った。 山頂は四十平方メートルの平地があり、中央に塚があった。言い伝えによれば、物見・狼煙場跡で、この場所に建長寺という寺があり、大きな鐘楼があって鐘を打ち鳴らし、その数や緩急などで情報を送った場所であったと伝える。寺はいつごろ廃寺となったかわからないが、天明年間(一七八一〜一七八九)に土地の者で佐藤安八郎(寛政十年(一七八八)没)と言う人が、この山裾の水田より石仏を掘り出して、籠で負うて家に帰る途中、大戸観音堂前に来たとき、籠が破れて石像は地に座して動かず、仕方なく境内に移そうとしたら不思議と動いたと言われ、以来堂内に祀られた。明治六年(一八七三)一月二十五日、観音堂は火災にあい、総ての堂宇が焼失したが、石仏故に梵鐘と共に焼け残ったのである。 翌七年、本堂が再建され石仏は観音堂の本尊となって現在に至っている。太平山の寺院の存在を裏付ける事実である。相原はここまで西に来ると海抜も一段と高くなり、淺川の椚田城や八王子城は目前に見える。この場所の山下は八王子市との境界で、北に下れば館町字殿入りで八王子城の宿将である近藤出羽守助実の居館跡で、この地名が残っている。この境界に接して八王子市の焼却所があり、大きな煙突がたっているので、この場所のよい目標となっている。

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地図

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