大戸の神社は、平家の落人たちが守っています。自治会単位では、日本一神社の多い地区となっています。

大戸の仏閣・石仏

大戸観音堂

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場所
町田市相原町 大戸
宗派  臨済宗
山寺号  山寺号 なし
開山 正長元年(1428年)二月十四日と伝えられている。
本尊 現在は石像で付近の田圃より出土したという。
町田市史下巻記載 八王子市山田廣園寺末本堂 正面三間「太子堂」の額をかかげ上部狐格子、横三間半、三方欅丸柱にて三寸廊下あり一間の向拝をつく。寄棟御堂造り。明治初年焼失のため、八王子市散田太子堂を移築して今日に至った。本尊 現在は石像で付近の田圃より出土したという。町田市史下巻記載 大戸はその昔、鎌倉や甲州に通ずる要地だったので、大木戸の番所があり、里人は大木戸の木をいつしか逸脱してしまって大戸と呼びなれ、それが地名となったこの番所のすぐそばに了心庵なる草庵があったが後にこれが山田(八王子市内)の雲津院の末寺となり大戸祐照庵となった。境内に相武二十四番霊場としての観音堂がある。本尊は天明年間に佐藤安八郎という者が、大戸の東谷戸の水田から発見した尊像があるという。この観音堂の梵鐘は、八王子城に北条氏照が在城していたとき、付近の景勝の地をえらび「八王子八景」と称して歌を詠み、そのなかに「大戸晩鐘」として詠った

大戸観音堂鐘楼

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RIMG0369.JPG山門との合作の鐘楼門で九尺四面の総欅造り
階下が門、階上鐘楼で梵鐘は昭和四十三年新新鋳され、鐘銘と、
夕かすみ立つ大戸の鐘の音に
       妻木を負いひて帰る里人
の八王子八景の短歌を刻んである。

大戸の大木戸の謂で、北条氏照が八王子城を築いたころは、城の第一の木戸がここにあったものと推定される。「八王子八景」は氏照時代に定められたとの伝承もあ

RIMG0659.JPG写真のキャプションを入力します。記此処に祐照庵なる一宇ありて 発願の観音堂梵鐘は 法恩の縁を結ぶ事二百五十余年 然るに大東亜戦争に際し徴に遭い 梵音惣ち消ゆ
夫れ梵鐘は仏法擁護の法器なり 今般信徒一同相議り 宝鐘一基寄進す願くばこの鐘の音と共に聞声悟道の安心を得て 平和の世界を招来せんことを
茲に旧鐘の銘を鋳刻して 鴻恩に報い奉る
昭和四十三年初春 信徒一同

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地蔵(境内西側柵内左より一基目)

年号  なし

地蔵立つ像(首なし)

施主  八木 久**
胴高  67

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地蔵(境内西側柵内左より二基目)

年号  なし

地蔵立つ像(首なし)

施主  無学窓珍比丘尼

胴高  67

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地蔵(境内西側柵内左より三基目)

年号  なし
地蔵立つ像(首なし)
奉造立恵光童女爲菩提他
施主  八木 *兵衛
胴高  67

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地蔵(境内西側柵内左より四基目)

年号  なし
地蔵立つ像(首なし)
田中久兵衛
施主  柳川 甚八
胴高  67

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地蔵(境内西側柵内左より五基目)

年号  なし
地蔵立つ像(首なし)
奉造立宗岸信士爲菩提他
施主  柳川 甚八
胴高  67

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地蔵(境内西側柵内左より六基目)

年号  なし

地蔵立つ像(首なし)

奉造立宗雪禅定門霊爲菩提他

施主  柳川 甚八

胴高  67

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庚申塔(境内西側柵内左より七基目)

年号  寛文十年十月吉日(1670)
台座 A面 (右)  奉行誦庚申供養
      (中央) 地蔵立像を刻す(三猿)
      (左)  寛文十年十一月吉日

寸法 本体   67*26
   隅丸角塔

※町田市で三番古い庚申塔である

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馬頭観世音(境内西側柵内左より八基目)

年号  宝暦二壬天九月吉日(1752)
台座 A面  (右)  奉造立馬頭観世音
            遍馬諸難消除祈所  庵主法界
       (中央) 馬頭観世音立像を刻す
       (左)  造立年武州相原村同行五十人
                      願主**

寸法 本体   72*45
   船形

※町田市で一番古い馬頭観音である


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供養塔

境内南側
A面  善光寺四十八度供養
寸法  本体  66*51*27
自然石(黄色)

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秋葉大権現

寛政二年極月吉日(1790)町田市史による
場所    境内西側 右より1基
本体 A面 秋葉大権現
   B面 寛政二年戌年極月 吉日
   D面 武州多摩郡大戸村溝中
本体 本体 60*25*25
   台座 (1)18*37*37
      (2)17*50*50
      (3)15*68*68
      角

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妙法守護塔

場所 境内東側
明治十六年三月
本体 A面  (上)(右) 日天
          (左) 月天
          (中央)妙法
       (下)(右)金神
          (左)水神
   B面  明治十六年三月
   D面  南多摩郡相原村松本菊蔵
寸法 本体  25*18*9
   台座  7*31*25
隅丸角塔

旧道

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A面  
東 相原駅 橋本駅 小山方面

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B面 
浅川駅 高尾方面

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D面
高尾山近道

相原町「大戸」の地名

明治八年(一八七五)上、中、下の相原村三ヶ村が合併して相原村となるまで大戸は、「横山之庄上相原村」が村名だったが、通称大戸と呼ばれ通称の方が近郷に知られる村名であった。
 地名の「大戸」は地域の古文書にもなく、数多い字名で土地の所在を示した寛文七年(一六六七)縄入水帳にも見当たらず、明治七年(一八七四)縄入れにより主な字名に統一され、番地制yとなって初めて観音堂がある土地一帯が「字大戸」の地名となったのである。しかしこれは、村の一部分の事で地域全体は現在も上、下大戸の呼び名が通例となっている。大戸の呼び名は上相原の屋号とも言える。
「相原太郎さんの家はと訪ねてもわからないが、**の太郎さんと屋号で訪れたらすぐにわかる場合もある」・・・・・! 屋号といえば大戸は古くから百戸前後の戸数であったが、現在でも屋号で呼び合っている土地柄である。
「新編武蔵風土記稿」や「名勝図会」に帰されるように大戸は鶴間から分岐して秩父、高崎方面に向かう鎌倉街道山之道の要地として、又、横山之庄の相州口としてこの地に口留番所が置かれ、傍らにあったと伝える了心庵は番所の詰所であったと考えられる。この大木戸番所を称していつしか大戸と呼ばれるようになった。
了心庵が後に廣園寺末となって祐照庵と改名し境内に観音堂が創立されたのが慶長元年(四百年以上前)当時から大戸観音様と呼ばれ、鐘楼が八王子八景の一つに称されて大戸の晩鐘と、いずれも大戸と古くよりよばれている地名である。

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地図

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