大戸の神社は、平家の落人たちが守っています。自治会単位では、日本一神社の多い地区となっています。

大戸の神社

大戸囃子

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天保年間、13代将軍徳川家慶の頃、江戸神田下町囃子の師匠、御殿万造を招き鎌倉郡阿久和(現・横浜市瀬谷区阿久和町)の鈴木勢三郎氏、相沢国造氏ら15名が下町囃子の伝授を受けた。
その伝授を受けた1人である相沢国造が、明治12年 武蔵野国多摩郡上相原村大戸(現・町田市相原町4456番地)吉川家の養子となりました。
郷土の若者、同好の志、相寄りて相沢国造(吉川国造)氏の祭り囃子の芸風を慕い、その伝授を受ける者は多く、曲名は、屋台、昇殿、鎌倉、神田丸、印旛、子守唄、四丁目、車切りの8曲から成り、当囃子の芸風は地元はもとより、近郷近在に多くの愛好者を得るに至り、いつしか「大戸囃子」として伝えるようになった。
中相原(町田市)、山梨県上野原、相模原市緑区与瀬、千木良(旧相模湖町)、原宿、都畑、小松、春日(旧城山町)、八王子市高尾、浅川、元八王子等、乞われるままに大戸囃子の流儀を伝える所実に20数箇所におよだ

祭ばやしとして八雲神社の祭礼には欠かせない物であり、昭和56年八雲神社神殿新築に合わせ、大戸囃子100周年記念碑を境内に設立した。

構成は、笛1人、大太鼓1人、締太鼓2人、鉦1人の5人ばやしで、踊りが、おかめ、ひょっとこ、獅子、天狐等で、悪魔を払い、人々の暮らしや動物の仕草を演ずることで成り立っている。
元の曲は全体に柔らかい曲であったが、戦後八王子の夏祭りで、幾台もの他の町会の山車と交差点等で出会うと、「ぶっつけ」と言われる山車が向き合って叩き合いを行い、負けた方が相手に道を譲る暗黙のルールがありました。それに勝つため、特に屋台の曲を力強く叩く曲に変えたのが、喧嘩囃子の所似でだり現在に伝わっている。

明治39年、河内彦太郎が川尻村町屋山口家の婿となり、その地域及び千木良、上野原に伝えた。
 昭和20年終戦となり、各地で祭りが盛んになり、大戸でも松井登美正が中心となって青年団の有志が”はやし連”を結成して、古老の小杉由松の指導を受け昭和21年に中相原の青年に教えたのを始めとして相模原市や八王子市の各地に伝えた。その又伝えを含めると大戸囃子は20数か所に伝わっている。

大正末期より昭和30年代初めまでは、八王子の夏祭りに毎年出演参加していたが、その後八雲神社の祭礼と日が重なるため参加していない。
昭和28年、立川市の諏訪神社神楽殿で行われた、全関東祭りばやし大会で農林大臣賞を受賞したのを初めとし、遠くは栃木県小山市の大会等、各地の大会、コンクールに出演して多くの賞を受けている。
現在は、町田市の諸行事や各地の祭り、催物、老人施設の慰問等に出演している。

昭和38年10月町田市無形民俗文化財の指定を受けたのを期に、大戸囃子保存会を設立し、大戸囃子の継承発展に努めていることが認められて昭和53年2月1日に町田市表彰の社会教育功労賞を受賞した。平成26年11月1日には、東京都表彰の自治功労(文化)賞を受賞した。

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