大戸の神社は、平家の落人たちが守っています。自治会単位では、日本一神社の多い地区となっています。

大戸の伝承

境川源流地

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川の名については「新編武蔵」に「武相の境界となれる川なれば、直ちにその名とせり、」とあるとここから古くから境川と呼ばれていたようである。
流れは多摩丘陵と相模台地を区分する断層線上にある。全長約52kmの二級河川。
東京都町田市と神奈川県の都、県境を流れ、大和市、横浜市の境に沿い藤沢市の遊行寺の前を経て川名二丁目の新川名橋付近で柏尾川と合流し更に鵠沼付近で片瀬西浜(相模湾)に注ぐ。

草戸山越えの古道

DSC_2192.jpg相原町大戸の観音堂の前から、大地沢青少年センターへ向い、更に草戸山を超えて八王子市上椚田案内に出、千木良、小原と経て甲州道に同流する道が、武相と甲州方面えお結ぶ間道として、その昔の旅人に大いに利用された。
その理由
一.江戸幕府は甲州口の備えとして、八王子宿に千人隊を置き、小仏(駒木野)に関所を構えて甲州口の旅人の監視にあたってたので、関所を避けての抜け道であった。
二.甲州に出入りする他の道に比べて、険阻な山越えがなく、案外近道であった。
三.相模川沿いの甲州道は、数カ所の渡し船の煩わしさが」あったと言われる。

この道の入口当たる観音堂の御詠歌に
  野うも過ぎ  山路むかふ 大戸堂
   いつも たえせぬ 願いなりけり
参詣の夜ひるたえぬ 観世音
   堂の大戸の たゆるまもなし
と歌われ、

観音堂付近には、旅人宿・居酒屋等が立ち並んで繁盛した一面、観音堂にいれば旅人を草戸峠まで案内して日銭を得られるので、土地の者の勤労意欲が失われ、旅人を待つ間の賭け事から財産を無くす者など悲喜こもごもな昔話が今日に伝えれれている。
 時は移って明治となり、関所は廃され、険阻な甲州道も明治二十一年(一八八八)に、大垂水越えの新道(国道二十号)ができ、国道の改修が進むにつれ、特に明治三十六年(一九〇三)中央線が甲府まで開通するようになると、この道からの旅人の姿は全く消えた。
その後、昭和十三年(十九三八)頃、東京ー朝鮮ー満州を結ぶ電話線が埋設され、草戸山を越えて西に向かったのが大きな出来事だった。昭和四十年(十九六五)には、地元民の努力で大地沢林道工事が始まり、大地沢の奥・・・・・。あの坂、あの橋、岩盤や木の根の露出場所まで記憶にのこる古道が、トラックの通る林道に変わり、大地沢青少年センターの解説により、ハイキングコースとして市民の遊歩道となっている。

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