大戸の神社は、平家の落人たちが守っています。自治会単位では、日本一神社の多い地区となっています。

野仏の説明

庚申塔

DSC_6614.jpg庚申塔は室町時代中頃から板石塔婆に「庚申塔」「申待」としてみえるが、庚申塔の造立は江戸時代以降で庚申塔信仰は平安時代の貴族の間で「庚申御遊」「守庚申」等の名称で行われていた。
この名称は、中国の道教の中の三尸説(さんしせつ)というものがあって庚申(かのえさる)の版には人の寝静まるのを待って人の体内にいる三尸虫なるものが抜け出して天帝にその人の犯した罪を告げる、天帝はその報告に基づいて罪の軽重を裁定しその報いとして、さまざまな災いを人間に与えるというものである。
そこでこの体内から抜けるのを防ぐため夜を徹していろいろの遊びをして夜を明かしたんである。すなわし「庚申御遊」である。
この教えは遣唐使や僧侶などによって、日本に伝えられ貴族階級で「庚申御遊」となって行われた。鎌倉時代には武家階級に波及し、
江戸時代に入ってからは一般庶民の間で盛んに行われた。そして幾多は民間信仰と習合し造塔供養にまで発展した。このように雑多な民間信仰が習合して造塔されたので初期のころは主導も一定せず、大日如来あり、地蔵あり、弥勒ありの状態であったが、後に青面金剛が圧倒的に多くなった。そしてこれに三猿が伴っている。多摩地方では町田市域にもっとも多く、かつ塔の内容の変化にも富んでいる。

地蔵菩薩

RIMG0509.JPG道傍に、寺の参道に、あるいは墓地の入口などあって、最も人々に親しまれている石仏が地蔵であろう。
その姿は円頂衲衣でいわゆる地蔵袈裟をかけ錫杖を右手に宝珠を左手に持つのが一般的である。また坐像、半跏像のものもある。
DSC_6619.jpg立像の遊行の姿をしたものは、さながら冥界とこの世の間を往来して衆生裂済度の地蔵菩薩本願の大慈悲心を顕現しているように感じる。
地蔵菩薩は釈迦如来が入滅された跡、弥勒菩薩がこの世にあらわれ衆生救済にあたるまで五十六億七千万年の間、釈迦如来から人間救済の委嘱を受け六道に現われ、よく衆生の能化するというものである。
六道とは地獄道(怒)、餓鬼道(欲)、畜生道(愚)、修羅道(闘争)、人間道天道(喜悦)をさしていて、この世で悪いことをしたものがその因果のむくいとしてそれぞれ地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道に良いことをしたものは人間道天上界に生まれ変わると教えている。
RIMG0453.jpg六地蔵尊は六道に輪廻転生して、苦しむ衆生を救うため六つに分身して済度するお姿である。
この地獄信仰は奈良時代中国から伝来して平安末期には当時盛んであった観音信仰にとってかわり、さらに鎌倉時代に入って、乱世の相を呈してきたいわゆる末世ともいうべき世相になっていよいよ盛んになってゆくのである。
さらに南北朝、室町時代へと戦乱につぐ戦乱で、人心は極度に動揺して死者は地獄に堕ちて閻魔大王の裁きを受け針の山、血の池などで言語に絶する責苦を受けるのだと説かれていたから阿弥陀如来の未来観音菩薩の現世利益とは異なって、地蔵菩薩は現世利益と死後の冥界をさまよう亡者も救っていただける功徳はすべての宗派を越えて信仰され急速に広まっていったのである。
この教えは江戸時代に入って泰平の世となってもなお盛んで、しだいにいろいろな民間信仰と習合して庶民のあいだに深く根をおろしていった。
また地蔵さまが少年や憧形であらわれて人の苦難をすくった伝説など多く、とりわけ子供の安泰を生前、死後を通じ守護してくれると信じて、子育て地蔵と称するものや、とげ抜き地蔵、いぼとり地蔵、間引き地蔵、延命地蔵等々が庶民の願望に結びついての表れとなっていったものである。

道祖神

RIMG1043.JPG庚申塔は室町時代中頃から板石塔婆に「庚申塔」「申待」としてみえるが、庚申塔の造立は江戸時代以降で庚申塔信仰は平安時代の貴族の間で「庚申御遊」「守庚申」等の名称で行われていた。
この名称は、中国の道教の中の三尸説(さんしせつ)というものがあって庚申(かのえさる)の版には人の寝静まるのを待って人の体内にいる三尸虫なるものが抜け出して天帝にその人の犯した罪を告げる、天帝はその報告に基づいて罪の軽重を裁定しその報いとして、さまざまな災いを人間に与えるというものである。
そこでこの体内から抜けるのを防ぐため夜を徹していろいろの遊びをして夜を明かしたんである。すなわし「庚申御遊」である。
この教えは遣唐使や僧侶などによって、日本に伝えられ貴族階級で「庚申御遊」となって行われた。鎌倉時代には武家階級に波及し、
江戸時代に入ってからは一般庶民の間で盛んに行われた。そして幾多は民間信仰と習合し造塔供養にまで発展した。このように雑多な民間信仰が習合して造塔されたので初期のころは主導も一定せず、大日如来あり、地蔵あり、弥勒ありの状態であったが、後に青面金剛が圧倒的に多くなった。そしてこれに三猿が伴っている。多摩地方では町田市域にもっとも多く、かつ塔の内容の変化にも富んでいる。

馬頭観世音・牛頭観世音

馬頭観世音.jpg馬頭観世音は、大力持明王ともいう。六道の苦界に迷う衆生を救うために示顕する観音菩薩であって、摩訶止観の説により唐の道邃和尚が六字経験記のなかに畜生道に馬頭観音を配している。
江戸時代中期ごろ以来、馬を扱って生活する農民や馬喰などの人々によって信仰されるようになり、各地に馬頭観音の供養塔が建立された。RIMG0451.jpg
馬頭観音のお姿はは忿怒の相、頂に白馬頭を載せ四方を駆けめぐって、一気に猛進し、生死の大海をわたり、四魔を打ち破るの大威力や精悍さを象徴しており、無明の諸障害を除くこと、馬が草を食むごとくとあるとされている。
しかし、当市域でみられる馬頭観音はほとんど文字塔でわずか数基で合掌した像である。大戸観音堂境内にある塔が宝暦二年(1752年)で市内でもっとも古く、立像を浮き彫りし遍馬諸難消除祈所、同行五十人と書かれている。
最も新しい碑は相原町大戸東谷戸に昭和三十五年(1960年)二月十二日八木良一建之とある。この東谷戸は坂の登り口にあたるので、この坂を越える馬にとってはたいへんな難所であったろう。ここには七基の馬頭観世音供養塔が立っている。
なお馬頭観世音も守護の範囲を広げて馬ばかりではなく、斃牛、屠殺牛の供養まで及び牛頭感音も出現している。

地神塔

DSC_6644.jpg多摩地区で地神塔は五十九基を数えるが、その分布は、町田市の四十八基、八王子市の六基、府中と多摩市が各二基、檜原村に一基となっている。つまり八割以上が町田市内にあるのでから、多摩の地神塔は、町田市を中心に建ったと言っても過言ではない。
このことを裏付ける貴重な資料が町田市金井西田にあったからである。今日では風化破損して判読さえ不可能であるが、60数年前以前にはわずかながら窮知しえた。それは西田にあった地神塔の側面に、地神信仰について延命院の修験者が碑文を書いて残したとみられる。この修験者がこの地域で、地神信仰を布教して、信者を集め各所に碑を造立したものと推定できる「延命院は、原町田六丁目 浄運寺前に昔あった天満山延命院で、町田市の草分けといわれる武藤氏所蔵寛永十四年の古文書の中にでているという」
地神塔は地・堅牢地神。堅牢地祇・堅牢地天などの異名がある。神名の意味は、堅牢とは地が堅牢で不壊(こわれぬ)でありことを神と名づけたともいわれている。五穀豊穣や福徳の祈願のために祀ったり、あるいは葬所を造るなどのときに、土地を鎮め、さわりのないように祀ったりする。
総じて文字塔で天下泰平・国土安穏・五穀豊穣などとかかれている。

供養塔

DSC_6550.jpg供養塔と刻された石造物を各所にみかけるが「供養」とはいったいなんの意味か疑問がおこる。
仏教辞典をみるとなかなか難解であるが、簡略すれば、三宝(仏法=説法・僧)、父母、師長、亡霊等に飲食香華等を供えて回向すること、これをまた三つに分けて、一つは敬供養、堂塔を建てたり装飾をしたりすること、二つは行供養、読経礼賛など、三つは利供養、飲食香華等を進供すること。となっていて、塔を立て読経礼拝し香華を供える目的の石造物が供養塔であるといえよう。
念仏供養塔、巡礼供養塔、三界万霊供養塔等々はみなこの意味をもった石造物である。と同時に札所巡礼や念仏講、写経等々の記念の碑願望・感謝ともいえよう・
供養塔以外に観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)、弥勒菩薩(みろくぼさつ)、薬師如来(やくしにょらい)等すべてそれぞれ供養目的のものである

題目法塔・名号塔

RIMG0148-1.jpgむずかしい仏教の教えは庶民には、朝・夕で理解することは不可能なことである。ただ「南無阿弥陀仏」を唱えればだれでも極楽往生うたがいなし、と説かれた法然や親鸞の教えが、たやすく庶民にひろまったことは当然である。「南無」とは帰命・帰依することをいう。
この名号塔は浄土真宗の高僧であった徳本行者の書にもなるものが、町田市内に数基ある。この徳本行者は紀伊(和歌山県)の人で二七歳で出家し、ただ念仏を唱えて四方を回り、寛政六年(一七九七)には京都の遺蹟を遍歴して、帰って古城山に閑居した。文化一四年(一八一七)に芝増上寺典海上人の請(こい)によって東国を化導して文政元年(一八一八)六一歳で世を去っている。
町田市にも足跡を残したものであろう。
題目法塔「南無妙法蓮華経」は大乗仏教の経典名の一つであるが、特に法華宗(日蓮宗ともいう)のお題目といって、ただ一心に南無妙法蓮華経を唱え奉れば諸難消滅し来世は極楽浄土するという日蓮の教えにもとづいて造塔されたものである。町田市には十三塔たっている。

題目法塔(だいもくとう)は、「南無妙法蓮華経」と刻まれた、鎮魂を目的とする供養塔である。