庚申塔
場所 相原町1303番地(中村公会堂前)
亨保二十年(1735)七月吉日
本体A面 青面金剛三猿
B面 庚申供養 宮崎 推右
同係 ◯◯
同庄 ◯◯
吉川 ◯◯
同 ◯◯
押田源七
D面 亨保二十年七月吉日
寸法 本体68*30*30
台座(1)18*32*32
(2)15*60*60
笠付角塔
現在、破損した笠を乗せてある。
庚申塔説明板
野仏
長い間、祖先の魂のよりどころであり心のやすらぎを求めたともいうべき野山や、道の辻々に雨にうたれ寒風に吹かれながら耐えてきたこの黙して語ることのない石仏に対して敬愛の念を再びよび起こして、祖先の素朴な心境を思い起こしてはいかがでしょうか
庚申塔 造立(一七三五年)亨保二十年 青面金剛三猿
庚申塔は、室町時代中頃か板石塔婆に「庚申塔」「申待(さるまち)」としてみえるが、庚申塔の造立は江戸時代以降で庚申信仰は平安時代の貴族の間で「庚申御遊」「守庚申」等の名称があった。
この名称は、中国の道教の中から三尸説(さんしせつ)というものがあって庚申(かのえさる)の晩には人の寝静まるのを待って人の体内にいる三尸虫なるものが抜け出して天帝にその人の犯した罪を告げる。天帝はその報告に基づいて罪の軽重を裁定しその報いとして、さまざまな災いを人に与えたというのである。
そこでこの体内から抜け出るのを防ぐため夜を徹していろいろの遊びをして夜を明かしたのである。すなわち「庚申御遊」である。
江戸時代に入ってからは、一般庶民の間で盛んに行われた。そして雑多な民間信仰と羽合し造塔供養にまで発展した。
初期のころは主導も一定せず、大日如来あり、地蔵あり、弥陀ありの状態であったが、後に青面金剛が圧倒的に多くなった。そしてこれに三猿が伴っている。この石塔に正面右下にも三猿の一つの姿が残されています。