諏訪加賀の墓所
場所 仲町 諏訪家墓所
墓石
本体 B面 安養院正山寿斎居士(二代)
A面 傳雄院道山英斎居士(初代)
D面 加馨院一山梅英居士(三代)
C面 俗名
慶長八卯年八月十四日 二代 安斎
永禄元午年三月二十三日 初代 道斎
元和七酉年十月十九日 三代 加賀
寸法 本体 70*29*27
角塔
元和元年(1615)諏訪神社が山火事で焼失。
加賀は、元和二年氏子と協力諏訪神社を再建した。
入会地の紛争。諏訪加賀の伝承
相原共有地沿革史より
相原村と鑓水村との間に両村それぞれの入会原野があって、その境界が不確定で永い間紛争の種になっていた。
相原村の諏訪加賀は、この解決のため先頭にたって鑓水村と折衝を重ねたが解決しなかった。
加賀は相原村に有利に解決したいと一策を案じ、相原の主張する境界に暗夜木炭を埋め実地検証を役人に願い出た。
役人は実地検地して木炭の埋められている境界線を認めたが、加賀に「お前は山林が欲しいか、それとも命がほしいか」と問いただした。加賀は、「無論、私は山林が欲しいです」と答え決意のほどを示した。
役人は、「左様か、しからばお前の望みを聞き届ける。しかし、今日までお上をさわがせた罪は重い」として境界は加賀の主張を通し、加賀は処刑された。
諏訪加賀の位牌は行昌寺に安置されている。